その名は何度も目にしているけど実際に見たことはない「自分の中の噂の映画」ってありませんか? 私にとってその代表格が「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」です。名作だとか有名という評判だけでなく、自分が好きな作家さんや漫画家さんによる紹介や、好みの小説や映画が並ぶような文章にたびたび出現する謎の映画。何年も前からそういうイメージで頭の隅にあった作品です。
つまり自分も好みなのでは、見てみたいなあと思いつつDVD化もされず見られず月日は流れ。ちなみに日本での公開は1992年。子供だったので映画の存在は知る由もないし、当時もPG12だったとしたらどのみち見られないな。
それがデジタルリマスターで札幌でも公開されるということで、これは逃すわけにもいくまいと情報を知った数か月前から待っておりました。
236分(インターミッションなしの3時間56分!)という長い長いお話。堪え性に欠ける人間なもので途中で気が遠くなったらどうしようと心配でしたが、映像の美しさと物語の緊張感で見続けられました。単純にちゃんと面白いので。
アジアの美と一口にいっても色々な美しさがあるのだと思いますが、「牯嶺街」の美は翡翠のような緑色が漂い続けているような美でした。草いきれの緑、真夏の緑。爽やかで透明なのに果てしなく重い絶望の緑。とにかく空気の表現が尋常ではない。
デジタルリマスターってそんなにピカピカにきれいに加工しなくてもと思うことがままありますが、今回のこの作品ではすごく上手くいってたんじゃないかなあ。言われなければデジタル処理済みと気づかないようなアナログの濃密な空気の画面でした。
映画って映画なわけなのでどんなに自然に撮られている作品でも「つくりもの」の感じはあると思うのです。それはまったくおかしいことではなく。というか当然ですが。つくりものなので。
が「牯嶺街」を見ているとその認識が揺らいでくるのです。初めての感覚で衝撃でした。閉塞した異世界にふとカメラが入り込み、少年少女たちをひととき記録したかのような映像。はっきりとフィクションだと分かるのにその中を流れるものが芝居や台本ではありえないとも感じる。矛盾した二重写し状態で、混乱を伴うリアリティが凄い。とんでもない画面だと思いました。創作物でありつつ現象の記録でもあるというような。そしてやはり国の、社会の話ゆえにそういう作品になったのだと思う。
これはもう計算や常識を超越して奇跡的に撮れてしまったような映画なのだろうな。そしてそういうものを目の当たりにすると、感動とか感心というよりもある種の恐怖を覚えることを知る……。そう、怖いんだよね。この映画が存在すること自体がどことなく怖い。
もちろんとても好みだったのですが、好き嫌いとは別の次元で見たことのないものを見てしまったなあという感想のほうが今は強いです。貴重な体験でありました。